磯子区・港南区 ばばぴあの教室講師の紹介です。
🎼生誕
音楽好きで商社マンの父、琴師範の母の二女として札幌に生まれ生後間もなく父の仕事の転勤で東京へ。
その後2歳の時現在の横浜へ移り住む。
母の話によると小学校に上がる前の私は自宅にあったオルガンで耳コピで覚えた『エリーゼの為に』を弾きプチ天才ぶりを発揮していたという。
🎼初めてのレッスン
初めてのピアノのレッスンに通い出したのは幼稚園年長(六才)のとき。
3歳上の姉と話し合い「お姉ちゃんと一緒にピアノを習いたい」と母に宣言したらしい。
通い出した近所の教室は先生の回転?が早くその後の6年間の在籍期間中4回も先生が変更になるという正直レッスンを受ける身にとっては望ましい環境ではなかったが楽しくレッスンに通い続けた。
そして毎日ピアノを弾き続けた。
しかし毎日弾いているのはレッスンで宿題に出されている曲ではなく当時流行りの歌謡曲や自分の好きな曲ばかりであり、レッスンで出された教則本の練習は正直言って嫌いであった。
しかし宿題である教則本は💮を貰いたい。。と好きな曲を弾く時間を捻出するために如何にスピーディーに教則本の宿題が終わらせられるか、といつも考え独自の練習法?をこの頃から編み出していった。(小さなお子さまは決して真似しないでください。)
🎼小学生低学年の頃・友の死
小学2年のある夏の日であった。
わたしは放課後の校庭で元気よく友達と鬼ごっこをして遊んでいた。
突然さっきまで追っかけ合っていた仲の良いクラスメートのSくんが突然私の目の前で倒れ泡を吹き苦しみだした。
驚いた私は恐ろしくなりとにかく先生を呼ぼうと職員室に駆け込んだ。
その後学校で鳴り響いた救急車の音までははっきりと覚えているがその後の記憶は正直思い出せない。。
数日後、気がついたらよく遊びに行っていたSくんの自宅におり黒いリボンをされた彼の大きな写真に手を合わせていた自分がいた。
次の日、当時でも珍しかった土葬で彼がそのままの姿で樽の中に入れられ土に埋められていったのをはっきり覚えている。
この出来事がその後の私の人生観に大きな影響を及ぼすことになった。
突然の友の死がまだ小さかった私の『死への恐怖心』を煽り立てた。
それ以来10数年に渡り平和な夜、穏やかな夜には床に入ると必ずと言ってよいほど死への恐怖心(明日朝になって死んでいたらどうしよう!?わたしは絶対死にたくない!)が襲いかかり恐くて何時間も震えが止まらなかった夜が幾度もあった。
そして寝付けず疲れ果てた結果自己暗示をかける。
『そうだ!だから、わたしは一生懸命生きるんだ!』と。
🎼小学校中高学年の頃
小学校では当時授業外の活動として合唱クラブ、鼓笛隊、水泳クラブ、ミニバスケチームなどが存在していたが、欲張りな私は全てのチームに所属し活動を楽しんだ。
当時日本で一番多忙な小学生!と勝手に自称していた(笑)
小学5年の時、担任の先生から頼まれ当時大流行していた『キャンディキャンディ🎶』のアニメの主題曲をクラス全員が楽器で参加できる合奏曲にアレンジをし地域の音楽イベントで発表させた。
そしてこれがちょっとした話題を呼んだのであった。
これはわたしのプチ自慢の一つである(笑)
🎼中学生の頃
中学生になり父の薦めで当時かなり厳しかった剣道部に所属。
生徒会の役員も同時に引き受け大忙しの毎日、帰宅は毎日19時過ぎであった。
知的ハンディを持つ姉が通っていた養護高校(現特別支援学校)のあるイベントでハンディを持った方たちが会場に流れてくる音楽に乗り自由に生き生きと身体を動かし思いきり音楽を楽しむ姿に感動した。
なぜだか溢れてくる涙を必死にこらえたことを今でも忘れない。。
まさに『音楽の力』を間近に感じた瞬間であった。
この時期ピアノの先生がお教室から個人の先生に変わりレッスン内容は更にハードになってきていた。
🎼高校生の頃
音楽高校を薦めるピアノの先生に対して
「高校までは公立の普通科で過ごしたい」と宣言し県立高校の普通科に入学。
軽音楽部に所属し仲間と音楽する楽しさに取り付かれる。
オリジナルの曲を作り、コンテストや学校祭で披露。
キーボードは勿論、シンセサイザー、ギター、ボーカルにもチャレンジした。
しかし、楽しいだけの日々はそう長くは続かなかった。
🎼高校3年、進路決定の時期
バントの仲間や周囲の友人達からは当然音大に進学するのだと思われていた。
勿論小さい頃から音大進学への憧れはあったのだが、しかし様々な理由から憧れの道に一心に突き進むことができない自分がいた。
その理由の一つは私が当時から憧れを抱いていた東京音楽大学は当時師事していたピアノの先生の薦める音大ではなかったからだ。
師事していた先生は桐朋学園大学の先生..だからそのままその大学に入るのが当然だという。
他校への受験などはもっての他。
しかし東京音大の受験を諦めることができなかったわたしは悩んだ末、気づいたときにはたった一人で池袋の東京音大の事務室に出向いていた。。
高3の夏であった。
東京音大の夏期講習会に参加し運良くトップクラスの教授のレッスンを受けることができたことからその後教授からお誘いを受け高校三年の9月からM教授(世界的ピアニストを数多く育て自らもピアニストとして活躍されていた)の自宅にてレッスンを受けられるようになった。
奇跡的なご縁で東京音大への受験の道が開かれた瞬間であった。
M氏のレッスン空間では今まで自分が演奏会の客席からファンとして応援し観ていた有名なピアニスト、レコードやCDで聴いていたピアニストが時々当たり前のようにレッスン室に現れたり、日常会話の中にも普通に表れた。まさにそこは夢のような世界であった。
しかしその夢の世界とは裏腹にM氏のレッスンは今まで受けた経験がない程の奥深く厳しいものであった。
この頃他の受験生は受験曲を既に練習し始めている時期であったが、私だけは今までやっていた曲を全て止めさせられ1からいやゼロから音楽の基礎を叩き直されたのだった。
今まで私が弾いていたピアノは一体なんだったのだろう?
途方にくれる日々であったが、M氏のレッスンは容赦なかった。
時にレッスン時間は3時間を超え気がつくと終電が無くなることもよくあった。
毎回時間を構わず自分の為に熱心にそして親身になって指導して下さる教授の存在はいつしか真なる教育者の姿として私の脳裏に焼きついた。
そして(現在でも敬愛する)このM氏との出会いがその後の私の長い音楽人生の大きな基盤となったことは間違いない。
🎼大学生のころ
一浪の末憧れ抜いた東京音大に入学をした。
しかしその喜びも周囲との圧倒的なレベルの差を突きつけられたことにより一瞬で消えた。
落ち込んでいた頃、当時大学4年で同じ教授に師事していた川上昌裕さん(後に世界的に有名なピアニスト辻井伸行の育ての親になる)と出会い大きな刺激を受けその後も良き相談相手、音楽仲間として多大な影響を受けることになる。
素晴らしい音楽、質の高い友人に恵まれ後れ馳せながらやればやるほど上手になるという実感も感じてきた。
大きなコンクールの前など多い時は10時間以上ピアノに向かった。
実技成績もメキメキ上がり卒業時にはトップクラスのレベルまで上がっていた。
大学側からは学内の音楽講師の推薦も頂き、父からは海外留学を薦められた。
しかし卒業後は安定した経済的自立、更なる演奏技術の向上を念頭においていたわたしは結局どちらも選ばなかった。
まだまだ人としても未熟だと強く感じていたので本業としてピアノの先生をやるという回路も全くなかったのだ。
そして選んだ職業は母校への一般就職!
時間的にはかなり厳しいがやりたいことが全て叶うと信じて選んだ道であった。
中学に続き人生二度目の苛めに遭っていたのは大学4年のこの時期。。
魔の手紙、コンクール前の夜中の無言電話、集団無視、監禁事件等。。
不眠症になりながらもなんとか生き延びた。
今思えば正直辛く切ない日々も多くあったがキラキラした未来に向かいながら自分の夢だけを見つめて乗りきった。
🎼社会人
東京音大を卒業後の四月、母校の教務職員として勤務を始めた。
朝は早いが定時で終わる職場を良いことに空いた時間でピアノを弾き無理を課して演奏会にも出演し勤務が休みの日には生徒のレッスンも行った。
長年の夢だったソリストとしてオーケストラとの共演を果たしたのもちょうどこの時期だった。
少々寝なくてもびくともしないこの時期、人生が楽しくて乗りにのっていた瞬間であった(笑)
社会人三年目の秋、遅い夏休みをとり箱根へ毎年恒例の家族旅行に出掛ける。
その現地での登山中に母が誤って山から転落。
幸い命は助かったが腰椎を2本骨折し全く動けない身体になった。
そしてそのまま現地に近い病院で入院となる。
笑顔で四人で出掛けた家族旅行が三人での寂しい帰宅となった。
その日から家事は勿論のこと母の入院中のフォローに加え、姉の日常生活のフォローも全て私が担うことになった。
想像以上の忙しさで当然大学の勤務は厳しい状況になりそのまま退職することになる。
🎼父の死
当時の母は幸い52歳と若く過酷なリハビリにも耐えることができた。
それが好日か事故から三ヶ月経った頃には退院しギブスをしたまま少し動ける様にまで奇跡的に回復をしていた。
やっと母が退院し大変だったが今年もまた4人揃って年を越せるものと誰もが思っていた暮れも押し迫る12月のある夜、突然1本の電話が鳴った。。
父が死んだ.....
交通事故で突然 ...
有り得ない現実。
朝、いつものように会社に出掛け今日も笑顔で帰宅するはずだった父が。。
小さい頃から姉のフォローで忙しい母に代わりいつも一緒に演奏会に連れて行ってくれた父。
ピアノのお稽古をみてくれた父。
いつも学校の勉強を教えてくれた父。
歌が大好きで独学で弾けるようになったビアノでいつも楽しそうに弾き語りをしていた父。
私が困ったときにはいつも相談にのってくれた父。
仕事も出来、皆に慕われていた父、私にとってはまさにスーパーマンであったその大好きな父がこの世から突然消えてしまった現実を一体どう受け止めたらよいか私にはわからなかった。
そして信じられない現実は私にこう教えてくれた。
『世の中、当たり前のことはひとつも無い』
『生きていることは奇跡』
目の前の現実が受け入れられず苦しんだ。
その日から我が家から音楽が消えた。
私だけでなく残された家族皆が音楽を聴くことができなくなった。
勿論ピアノを弾くことも辛くなっていた。。
父と一緒に過ごした時間は夢か幻か....
いつか父が突然帰ってくるのでは?という複雑な想いの中でずっと過ごした。
父が他界したことをどうしても心の底から認めることができなかった私はその後20年余り父の墓前や遺影に一度も手を合わすことができずに過ごすことになる。
🎼ピアノの先生になる
それから二年の月日が経ち私は再び演奏会場にいた。
やはり生きる道は音楽、と確信した私はヤマハのシステム講師の資格、運転免許もとり音楽教室の他、自宅や出稽古での生徒も合わせて週に40人程のレッスンを行い同時に演奏活動も精力的に行うようになっていた。
家族を残しまだ56歳という若さで突然亡くなった父の無念を考えるととにかく前を向いて笑顔で一生懸命生きる他無かった。
身体が弱った母とハンディを持つ姉のためにももう泣いてはいられなかった。
そんなときピアノの音色がわたしを癒してくれた。
生徒達の笑顔がわたしを励ましてくれた。
そして『音楽の力』によってわたしは生かされていた。
🎼人の親になる
その後、縁があって音楽好きのサラリーマンと結婚。
二人の子宝にも恵まれた。
演奏活動は出来なくなったがレッスンは片時もお休みせず行っていた。
この頃には音楽教室勤務は辞め自宅の生徒さんだけのレッスンをしていた。
子育て、家事、レッスンと目の回るような忙しさだったが音楽がいつもそこにあった。
そしてやさしく皆を包み込んでいてくれた。
この時期友人の川上昌裕さんが留学先のウィーンから帰国後あの辻井伸行くんのレッスンを始めていたが合同発表会で初めて小学2年生の辻井くんの演奏を聴いたときは一緒に出演していたうちのお弟子さんらと共にその音楽性と人を惹き付けるバワーに圧倒された。
辻井くんが出演の際、目の不自由な彼をピアノが弾ける位置まで手を控えエスコートをする役も担っていたがその時の彼のフワッとした小さな手を今でもはっきりと覚えている。
辻井くんとの出会いが私にとっては勿論一緒にステージに上がっていた私の当時のお弟子さん達にも多大な影響を与えたことは言うまでもない。
それから13年後に彼があのバンクライバーン国際コンクールで世界一のビアニストになるとはその時は誰も想像していなかったのだが。。
🎼突然の病
あの小さかった辻井くんも16歳になり将来の活躍が期待されメディアにも沢山登場するようになったころ。
その姿をまるで親戚のおばちゃんのような感じで自分の小さな子どもたちと共にいつも観ていた。
相変わらず多忙だが充実した毎日を送っていたある夜のこと。
就寝中に突然左耳の激痛と共に360度ぐるぐると回転するめまいに襲われた。
恐怖の余り寝ていた布団を必死に掴んだ。
大学病院での診断の結果は極度の緊張感や過度なストレスからくる蝸牛型メニエール病であった。
そのまま緊急入院。
ここ何年か歩いていて浮遊性のめまいや耳の違和感、微熱の症状は感じていたのだが入院した時点では左耳の聴力はすでに無くなっていた。
確かに右耳は聴こえているのだがバランスが悪く上手く聴き取ることができない。
少しガヤガヤした屋外だと音を上手く聴きとることができない。
内耳にかなりのダメージがあるせいで歩いているとどんどん左の方に身体がとられていく。
歩くと危ないので車椅子での歩行を強いられた。
今まで味わったことのない恐ろしい感覚であった。
直ぐに手術も行われ痛みからは解放されたが耳の聴こえは戻ってこなかった。
入院して一週間たったある日、主治医から別室に呼ばれ左耳の聴力がずっと戻らないということを宣告された。
絶望的だった。
次の年から上の子供が小学校に入り漸く自分の時間を少し持てるようになりピアノが弾ける時間が増えることをドキドキしながら待ち望んでいたのだが、
聴こえが戻らないのではもうお話しにならない。。。
終わった。。
病室のベッド、布団を被り声を圧し殺して泣いた。
何日かして同室の末期ガンの患者さんで毎日死の恐怖と闘っている同年代の女性が私のその状況を知り私のベッドサイドまで来て優しい言葉でこう言った。
『一緒にがんばろう!』
涙が溢れた....
これは悲しいとか苦しいとかの涙ではない..
これは本物の優しさに触れ癒された時の感激の涙..
そうだ、わたしは今、死ぬと言われているわけではない。。
ご飯は取り敢えず美味しく頂けている..
ここで今まちがいなく生きているのだ。
痛いも苦しいも生きているからこそ感じるもの。
🎼感謝
それから10年余りの月日が経ちさまざまな合併症をいくつか患いながらも左耳の聴力は日常生活に支障が無いレベルまで戻ったのであった。
まさに奇跡だった。
音楽をはじめ私を取り囲む全てのものがわたしにパワーを与え奇跡を起こさせてくれた。
常に生きていることに感謝(^^)
痛みや辛さがなければもっと感謝(^^)
『音楽の力』を感じとることができたなら最上級の感謝(^^)♪
大切なことはすべてここにある😊
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